2013年7月8日月曜日

思想としてのWinny


ぼーっと空とか眺めてた。自分は時間がかかりすぎて、要領が悪くて、いちいち長過ぎる。




@sasakitoshinao: Winny弁護団だった壇弁護士がブログで金子勇さんの逝去を語られているので、これで確定ですね。それにしても何と言うことか・・ご冥福を。/訃報:将星隕つ: 壇弁護士の事務室 http://t.co/4lqPMBpa3m

言葉がない。

もう少し早くに著作権に対する知識を入れたら、もっと上手く曲を作ったり、もう少し協調性があれば、ではありますが、コンテンツをP2Pで流通したり、Winnyがそういう土壌になったかもしれない。結果的に、自分なんかは金子さんの著作権に関する事例に学んで、これで行けるかなということを考えたりしました。ピアプロなんか思想としては使った側も分岐だと思う。

自分は頭のよい人と、どうしても歯車があわない。あと少し、あと少しで、そうしていると、掴んだところからまた、ドジョウが手から出てしまう。空気が読めてないのかな。そうこうしているうちに、天才はみんなさっさと遠くへ遠くへ行ってしまう。

ウィニー坊やとソーセージの名前が後ろに下がり、Winnyによる問題が顕在化する2002年周辺で、ぼくはまだ社会にも出ていないガキだったのです。まだガキだけど、さらに子どもでした。いつか接点ができるかなと考えていたのです。そんなとき、ボカロが出てきて、さらに金子さん流に言うと顔の広い上流ノード、例えば佐々木俊尚氏、にクエリを送る機会に偶然恵まれました。たくさん書物を読み、論文も読み、自分でも、少し動いてみたけれども。

それで直接ではないけれども、同じ場にある他のノード、あるいは人を介して、同じ想いを少しは共有できたものと考えたいです。決してヒロイックではないけれども、そこも含め、遠くから尊敬していました。だからなんか、呆然としている。

金子さんがいなければ、佐々木俊尚先生はWinnyに関する本を書くことはなく、僕も直接先生にお会いする機会がなかったかもしれないです。教授と無駄話していて、Winnyの本を書いた佐々木先生がくるよ、と紹介されました。

僕は金子さんの影響を受けてボカロ曲を出して、今でもコメントがついてます。佐々木俊尚先生に押しかけたのは、その後でした。ドライブという曲を出した後、たまたまでした。

金子さんとその考え方は日本の音楽文化にも計り知れない影響を与えています。金子勇さんのご冥福と、ネットワーク社会の未来が明るいことを祈りたいです。

2002年からは10年以上になるんだなぁ。馬鹿だから自分の年齢も忘れるけど。

さて。

金子勇さんの、47氏としての面をしっかり見ろよ、という議論があります。

「最高の違法ファイル交換ソフトの創造者」金子勇氏を偲んで — 乱れなよ、そして召されなよ
http://t.co/mAw7XtsTVf

内容と、提案に同意です。

状況は今と昔では違います。

Winnyをはじめとしたソフトウェアの影響もあり、現行の著作権法では公衆送信権の定義が変わりました。それ以前の状況では、やはり従来から問題であった著作権に対しても、Winnyは強烈なアンチテーゼであり、考え抜かれていました。

47氏としての話を整理すると、いくつかある中で、情報の流出の問題と、児童ポルノなどの流通の問題、著作権にかかる問題に分かれます。

ただし、著作権の問題は、前ふたつとは別に、明らかに社会的に、また文化的に影響がある話で、突っ込んで議論されて是非をはっきりできます。47氏の著作権法への理解は、大変行き届いたものでした。

Winnyは優れたプロダクトであるかどうか、それ以上に、まず社会的であったし、それまでの一方通行の権力の定義が、明らかに逆の方向から変わりました。これは法改正という形で、改悪ではあったけれども、不特定多数の参加者から国家の狭い領域にまず逆転して向かい不安を与えながら、その後にはインターネットはn対nの関係へと向かいます。権力の流れとは別の問題として、お金の流れの問題がありました。Winnyによって、管理不可能なネットワーク上でのマネタイズが困難であることが分かります。

Winny後に何が起こったでしょうか。お金の問題をコンテンツから見ると、iTunesもハイブリッドP2Pもニコニコ動画もつべも失敗でした。例外が着うたの躍進ですが、一部独占的で、時間の経過に比例して減益に至ることは早くから予想されていました。しかし、コンテンツとそのマネタイズはネットによらない場所で成功しています。ネットの拡張としての現実、と考えてスッキリします。

金子さんが意図した電子証券の形では、お金の流れもネット完結です。が、実際にはどぶ板で、生々しいリクープが行われます。ボカロのように各種権利が錯綜するとき、著作権は再び灰色にされ、コンテンツホルダーは、

1. 従来に比べ圧倒的少数で
2. ライセンス貸与とカラオケで
3. 原盤などひっくるめた形で同人CDとして

リクープ、あるいは原資回収をします。

一方で、ネットを使えない層はマスコミにコネクションでもない限り、あまり商売になった話を聞きません。AKBでも、ももクロでも、あの人数を食わせると考えると、僕には工場のラインしか浮かばないのです。何人いるか分からないけれども、仮に48人いたら赤穂浪士です。人件費だけでも大変です。

そんな中で、EXIT TUNESとmF247は、成功と失敗を明確にしています。あるいは僕もそうなんだけれども、妙なプライドを考えた所から、潰れていきます。こまけぇこたぁいいんだよ、じゃないですけれども、記録は記録です。

以上が、金子さんの考え方から、著作権の部分を抽象して参与観察した、記録です。同時期に音ハメを書かれていたあの日の津田さんはもういないので、これ以上のものは、ありません。その津田さんにさえ、Winnyから端を発して、どこかしらで現実を噛んで接続するのです。世界が狭いのではなくて、Winnyから、あるいはネットから、新書メディアから、世界は狭くなった、と考えます。

さて、ここまで文化や社会への影響を、著作権とマネタイズから語りました。ところで、こんな論を昔から一貫してベラベラしていました。すると2009年ごろ、セキュリティの専門家である高木先生に、馬鹿と言われました。皮肉ではなくて、ご教示を今でも僕は個人的には鮮明に記憶しております。

これは、Winnyを情報流出やセキュリティに問題がある、という視点として捉えるか、人社あるいは法の視点から影響があるものとして捉えるか、という視点の違いから起こった、すれ違いだと僕は考えます。

同様の視点で議論が生まれつつあります。

金子勇とWinnyの功罪 - novtan別館http://t.co/GZkW4jDhAA

この記事では、功罪の二点から金子勇を、あるいは47氏を捉え、プログラム技術を持った無垢な天才としての部分はあったが、しかし47氏としての彼とWinnyに(社会的に有益な)功績はなかった、とします。

後者の議論こそ結論を見ないのですが、47氏は社会や文化に影響を与えたことは、彼がネット社会の明るい未来を祈ったことを踏まえ、大いに語られて欲しいです。

後者の議論が結論が出ない、ということについて考えます。たとえば、児童ポルノにからむファイル流通に関しては、猥褻の定義が絡むので議論は尽きないでしょう。けれども、国家機密からまさかのIPA職員の個人情報や日大のあれこれまで(三島の国際関係の名前まであるわ。。)、情報を流出させたけれども、それは起こったことでしかなくて、功罪として白黒つけることではないと考えます。情報流出に関しても児童ポルノ流通と同じように、議論は尽きないでしょう。

また、たとえWinnyそれ自体に功罪の根拠を求めても、形としてはその拡張であるキンタマに根拠を求めても、いくら帰納したところで、社会や文化の問題と捉えると、答えはありません。ただ、問題だけは、あります。そう捉えているのです。だから、起こったことでしかない、と僕は考えますが、どうでしょうか。

プログラマの視点からだけ語られてしまう違和感、があるのかしら。だとしたら、違う見方もあるということで。

著作権と、権利が関係する音楽に与えたインパクトは大きいですし、これでよかったです。これだけは、先に述べたように、答えが出ています。






2013年6月30日日曜日

こつこつやる話

環境を変え、東京に合流して、余裕をもって学問をしたいのです。私は、成功しなくてもいいから、学問がしたい。

7年。今から2年後。そこが、5年考えて心身ともに衰弱している自分が走る、長いマラソンの休憩ポイントです。行き倒れにならないように、やらなければいけないことは勉強です。具体的には、朝4時から、楽しく数学をやっています。こつこつ亀の歩みですが、最近は複素数も終わり、日々無知を嘆きながら、そのままにはせず、ひたすら続けています。英語も、苦手だった作文をこなせるようになりました。

こつこつ。

今、毎日がとても充実しています。

2013年5月28日火曜日

反抗と従属から、ニュープアがとる戦略


抗うことで、実は従属しているということについて考えてみます。なぜこの問いなのかというと、反抗や抵抗、テロにより、大きな物語やひとつの理論による説得が成り立たない昨今を考えたいからです。こんな時分、人は互い違いになっていくのでしょうか。結論を先に述べてしまうと、互い違いにされながら、人間たらしめようとするというものが現代のリゾーム液状化で、これに対抗するとは、では具体的にどういうことで、なにを意味するのでしょうか。

近代、人間は主体を求められ、たとえば『車輪の下』など読みながら、またギムナジウムで、あるいは工場の労働者として、陶冶され、教育され、人間になりました。人間にならなければ、異常とされ、狂気とされ、消されていきます。このあたりは、監視と権力を巡る議論に詳しいのですが、時は流れ、公衆衛生やパーソナライズに至り、現代も人間たらしめようとする権力の活動は、形を変えながら、また流動化しながら、かつ消えかつ結びて、家の内外をまた無線LANでつなぎながら、とどまることがありません。

人が自然から文化に移行した後、いよいよ人間になるけれども、車の運転に慣れた人などを例にその文化を決して否定をしないのが実は構造主義文化人類学です。いかなる状況にあっても、これは変わりません。

さて、主体は敵を客体として成立することは、『失楽園』や、フロイト精神分析にいわれたようなエディプスコンプレックスをテクストとして解釈すれば、明らかです。もうひとつ、最近ハマっている語源から、これを考えてみます。

object subject obey the low のobと客観objectのobはどちらも向きや方向のニュアンスを持ちます。印欧語の接頭辞として、逆に、というニュアンスがあるそうです。

例えば、こんな風に。
ob-【=against 〜に対して】bey【ラテン語 audire 聞く】

obstacle、邪魔をするとか阻害する、というのも、ob逆に、stacle立つ。

反逆することobeyは、つまり、逆ob-で、単語としては、従う、という意味になるわけです。

object to〜で「〜に反対する」、ここでもob-は方向を持ちながら、それは-ject、投げられます。誰に投げるのでしょうか。toだから、相手に投げます。逆に、相手に投げて反対するからtoが付くのです。rejectは再び投げる、すなわち、拒絶です。

では、subject、主体はどうでしょう。subには基礎とか土台のニュアンスがあり、そこにjectで、投げる、つまり自分に投げているのです。しかし、主体を主体たらしめているものとは、他者の持つ方向性です。

参与観察というのは、ob-とsub-の両側に立つことはありません。対象の感情それ自体を探るところでは、愛情など抱いては、関係性の内側に取り込まれてしまいます。もし人類学者がブラック企業でフィールドワークをして、そこで誰かに恋でもしたなら、屍になって帰ってくるか、帰ってこないか。

外の人はあくまで、外の人でしかないのです。

ゆく河の流れは絶えずして、常にもとの水にあらず。

液状化した社会制度は、確率論を用いたパーソナライズやレコメンデーションにも通じながら、すでに浸透しています。もちろん、サーバー側にいる人間が手を加えたり、政府が雇用政策に口を出して、日雇い派遣が解禁されたりしながら。また、親族殺や、バウマンのゲーテッドコミュニティに耳を貸さず、犯罪のない小学校に民間警備会社という、いわば体制側テロリストが入り、ますます液状化が進むのです。これらはまたグローバルに起こっています。同時多発なのです。

これに加担するか、対抗するか。

まずは逃げることです。人間をやめ、しばらく蟄居することで、視野は広がります。国家に加担する前の報徳思想は、晴れの日には開墾を、雨の日には学問を進め、一定の成果を得ます。学問により、特に外国語や数学など身につけ、決してどちらにもつかず、人間たらしめようとするあらゆる権力から逃れること。

時代は揺り戻しで、現在は内向きであったり、勘違いしたグローバリゼーションやら国際が蔓延していますが、次は必ず外に開きます。対抗も和議も、あっちに流れてはこっちに流れます。

そのときのために、縦に学問、横に網をはり、年限に関係なくまず有利な場所に戻ること。いつやるかと問われたら、まさに今も着々と知識を得て準備を進めていて、そこで自分は自分の役割をようやく果たせます。

2013年5月11日土曜日

解答者の気持ちになって答えなさい

センター試験をはじめ、いわゆる国語の問題において長らく疑問に感じていたことがある。それは、より正確には随想に多いのであろうけれども、「筆者の心情を説明したものを次の選択肢から選べ」だとか「主人公の心情の変化を示したものはどれか選べ」という設問があるときに、これらは多くの人が言うように、「筆者」のことや、「本文の内容」を整理して答えを出すことを意図して作られているのだろうか、それによって解答が可能であろうか、というものだ。

結論として、先に述べてしまうとそれは不可能で、出題者の意図を汲んで答えるというのが真正なのだ。というか、これは結構重要な誤解であると考えられるから、すこし紐解いておきたい。

たしかに、本文の主題を把握したり、逆説表現に注目すること、言い換えれば、本文の内容を理解するための手掛かりを効率よく把握するようなことは、入試以降に多くの書物にあたる場合には必要だ。500とか600ページに渡って淡々と論理的文章が続くときには、本文の内容だけがあり、それに対して設問はない。一般的な常識に論理的にアプローチし、提案をするということは、先入観という硬い壁を突き崩すことに他ならない。それは、とても難しい。だから、主題は何度となく言い換え、繰り返される。それが章立てされ、一冊の本として売られていて、ときに読んだり、人によっては積んだり、また本を読んだかわりに、読者は人生を詰んだりもする。

けれども、試験は違う。東京大学の横にある大学入試センターという、センター試験の総本山がある。実際、駒場のほんとそのまんま隣にある。そこに、誰だか知らないが、文章をひっぱってきて、さあ選べ、という選択肢をつける「出題者」がいる。そう、筆者でもなんでもない、文章となんら関係のない、ひょっとすると複数いるかもしれない出題者こそ、ママ原典を誤読して余計な解釈をつけてくる黒幕だ。どんなに恨もうと憎もうと、それでも、試験制度がこうある上では、出題者の思考によりそって、解答をすることが求められる。ここを勘違いしてはいけない。

つまり、「出題者」の意図を、「文章にかかる人とは全く関係のない」「出題者の言いたいこと」を、私たちは理解する必要があるのだ。だから、本文の内容を精読する必要は全くない。なんらかの背景知識もいらない。無駄に思想の変遷や文学史を並べる参考書もあるけれども、無視して構わない。問題作成にかかる人物にそういう高尚な知識はない。具体的にやるべきことは、選択肢から出題者の意図を汲み、場合分けして、本文との整合性を判定することである。それ以外の作業はすべて必要がない。

これはまた、たとえ選択肢が欺瞞と恣意に満ちた誤読の集大成であろうと、責任はすべて出題者のせいであって、本文の著者は一切無関係である、ということでもある。だから、たとえば試験問題の答えに対して、本文の著者から直接の解答があったとしたら、それは、そういうタイプの誤読なのだ。なぜなら、本文の内容と試験の答えは、全く関係がない。出題者が誤読し、私たちはその出題者と対話しているのであり、本文を真面目によんでいるわけではないのだ。全くもって、それは以上で述べたように、成立しない。不可能なのだ。

だから、もし解答に迷ったときには、本文の意図なんて無視して構わない。選択肢と対話して、判定資料として本文の内容を使う。

記述式問題に関しても、決して本文の内容や著者に対する背景知識は必要ないし、そんなもん知るか、という話になる。

ようするにみんな国語科教諭というのは、予備校等も含めて、受験の便法として枠に入らないタイプの嘘をついている。この問いに決着をつけるため、上述の提案を素直に受け入れてもらいたい。仮に、試験その後の実用性というものを含めて「便法」としても、やはり「本文の内容」ではなく「出題者の意図」が重要であることは、説明するまでもない。