2017年9月16日土曜日

星と星屑

 私は、「音楽を作るのは趣味」と、人の何倍も強力な枠に入れているのです。だから、音楽については、個人的な「趣味の延長」という思考になりやすいです。

 誰もが簡単に音楽を作ることができる、という、工学が掲げるややいい加減な、未来志向の定義にも共感しがちです。

 もちろん、音楽に関するあらゆる公共の場は、プロや強者にだけ開かれているわけではなくて、いろいろな人が気軽に使うようにできています。誰もが気軽にできるなら、それはそれで素敵なことです。ま、そんなうまい話はないんだけどね。

 逆に、プロフェッショナルとスター、カリスマのそれが音楽だ、という人もいます。大衆に一括送信して商売もうまい、みたいな。プロの作ったもの以外は価値がない、とか、スターの作った曲こそライブで聞く価値がある、とか。「(気軽に)作る」、という意識が抜け落ちていますが、実際そういう人もいます。

 これに関しては、スポーツと同じです。スター選手やプロ選手がいる一方で、学生やアマチュアもいます。陸上でも草野球でもプロ級でないと気が済まない、結局プロも同じ平面にいて相手している、って話もあるけれども。

 体育館はプロしか使えないでしょうか?そんなことはないですね。そんなプロやスターがいたら、そいつは村八分になります。誰かが体育館を占有していたら、スポーツに力を入れている高校や大学みたいに、頭の悪そうなレッテルを貼られてしまって、一段下に見られるかもしれません。

 同じことが、音楽にもよく当てはまるものだと思います。というか、スターになったときの収入体系のいい加減さもかなり似通っている。年俸か、半期の印税か。ライブや出演の話はここでは棚に上げつつ、でも、そういうところではないでしょうか。

 もうひとつ重要なことは、時間の流れで体系化されていくと、法人としか取引しないとか、わけのわからないロジックが出てきて、当初あった思想的な背景はないがしろにされていき、さらに時間が経過すると、今度は採算も合わなくなって、しまいにはまた我々の手に帰ってくるということです。

 数学的にいうなら、放物線を描いたように、人気の二乗に比例して最初はうなぎのぼり。今度は二乗に比例して虚無の底に落ちていく。野球がそうですよね。あ、余計なこといったかな。定義をしたか、定義域を定めたか。そこで次の話に行けるか、逃げられるか。っていうのは、そういうことなのです。