2016年10月16日日曜日

邪推の話

 今朝はぐっと冷え込んできました。そうこうしているうちに秋は過ぎて、すぐ冬になるわけです。

 ネットでもソーシャルでは邪推があります。時間が限られているコミュニケーションの刹那のやりとりでは邪推されやすく、また邪推されてしまう発言を現実のそういった場でしてしまうことも、誰にだってあると考えています。差別と同じように、邪推も起こりうる話です。たとえば分析と統合を繰り返す学者でも邪推するし、そこで「主観・客観」とか「神の視点」、「俯瞰」などのタームが議論されます。

 生きている限り、気を付けていても、邪推してしまったり、邪推されたりもします。しかし邪推されてしまった場合にどうしたらいいでしょうか。大したことでなければ、あるいは対象の人格的問題から出てきた邪推であれば放置するのもアリなんじゃないか。面倒だし。そんなことを考えていました。

 邪推への対策が疎かになっていませんか? あることについて複数回のコミュニケーションの場面を設けないと、確実に邪推が起こります。