2016年9月1日木曜日

防災に関する話

 9月の1日というのは、静岡では防災訓練の日になっています。夏休みの宿題を提出して帰るだけの日、といって差し支えありません。あと、セブンイレブンで今日からおでんが割引販売開始ですね。

 私は、防災に関しては元衆院議員の斉藤さんが提言されていた「減災」が望ましいと考えていて、そこに防災訓練が集団行動の延長としてあるのであれば、これは誠に的確なものであると考えております。

 一方で、かつての静岡県には様々な災害にかかる迷信がありました。たとえば、起こりもしない東海地震がすぐやってくる身近なものなのだと、この半世紀、まるで怪しい宗教への敬虔な信仰であるように陶酔し、その理屈を「崇拝」していたのです。時代は過ぎ、気象庁では確率のパーセント表示を分数に切り替えています。

 また、これに関しては、予測不可能な震災を予測可能であるとする杜撰な地震予測、および関連する予算系の工学の無謬を擬制した信仰もありました。

 これらのことは、関係者の尽力のもとで、多少は揺らいだものと感じられますが、いまだに疑問は多数あります。田子の方では、津波が考えられるのに、集団で防災訓練して、「てんでんこ」にはならないのか、など。懐疑は尽きません。災害の渦中ではチームプレイが人災を引き起こします。一般的に、チームプレイが試されるのは災害のあとです。サッカーじゃないんだからさ。

 信仰や風習といった文化活動は、本来保護しなければ、いや保護しても廃るべきものです。この点では、よしにつけあしきにつけ、科学的に一致をみるでしょう。防災訓練に関しては、まだまだ科学的に、また普通の人の感覚でもっても、点検の余地が残されている、ということをどうか忘れないでください。



 まあそんでもって難しい話はいいのですが。最近お勉強も多少できるようになってきたものかどうか、楽しめるようになってきました。

 どういうことかというと、以前は馬鹿すぎて問題解けなくて、もう嫌だったのですね。わー、ぽい、って。それが、多少は頭の使い方が継続で出来上がってきたというように感じられます。計画的に覚えるタイプの読書に慣れてきたとも言い換えられると思います。

 出世はなくとも、立身というものは、正攻法で行くのはこの静岡では漠然としすぎて無理でしょう。既成の概念を微積できるまで砕いて、そのあとに残ったところで、現実を見据えて分析にかけたら、今度はじっくりと時間をかけて練り上げ、取り組むことで、既成の論理的な整合性を打ち崩すことは、逆に手に余る期間を考えると十分に可能であるように感じられるのです。その線でいっております。いいですねこのストーリー、われながらよくできています。でもって、まあ元気にやってますということですね。

 さ、午後はおでんに一献、その前に読書かな。