2016年8月21日日曜日

「思う」という表現を英語から考えてみる話

  「思う」という表現を排除しようとする人がいるようです。マスコミに取り上げられたからなのかどうなのか知らないけれども、私は「思う」という表現を理由なく日常会話から排除する考え方には明確に反対です。

 思う、という単語を考えるにあたって、英和活用辞典の believe という項目に「思う」の訳語が充てられているのを発見しました。それで、和英辞書を引くと、「思う」は英語における think, consider, believe, reckonに相当するとあります。

 すると、「私はこう思う」を「私はこう考える」 と言い換えなくても、「思う」の訳語には think や reckon といった「考える」に近い英語を当てはめることができるので、「こう思う」といっても「考える」といっても、概ねどちらでも構わないのです。

 そこでたとえば、いちいちthinkかreckonかを説明する必要が、日常の会話においてあるでしょうか。私は、必要はないと思いますし、自分の意志を示すには「思う」でことたりるはずです。

 また、思い込んで「思う」という場合には、自分で考えて思ったということでつじつまが合わないのであれば、ときには神の意志かなにかを「信じ」てそれを表明しているのでしょうけれども、そんな人はただただ怪しいわけで、思っていようと考えていようと、あるいは信じていようと、怪しいのです。

 consider の部分を、「想う」、とか言い換えたい、というのは、マスコミの好きそうな話です。「会う」を「逢う」、であるとか。しかし、他者や相手があるか、自己の考えなのか、ということは、文脈で判断することです。漢字を変えようがなにしようが、文脈で判断したら、内容は全く変わりません。

 だから、思っておけばいいと思います。