2016年8月13日土曜日

計画をたてるとどこまで見えるの?という話

 たとえば、覚えたい文が400個あったとします。

 1日あたり、25項目を覚えます。すると、4日で、100項目を終えることが可能です。したがって、400の文は、16日で終えることが可能です。その後も繰り返しますが、そのときにはもう大分ラクになっていることでしょう。人生まだ先長いので、確実にこなせます。

 ちなみに、300から400個ある文というのは、時間にしてCD2枚分程度のボリュームです。120分、つまり2時間あります。これを最初から一度にやるのは無理なのですが、一度にやりがちで、私もよくこう三日坊主にしていました。数日に分解すれば効率よく長く楽しめると思います。いうようになったじゃないか。

 まあなんでもそんなもんですが、音楽など芸術性を持つものは、そういう一枚岩ではいかないですね。計画は絶対ではないのです。

 というわけで、計画は絶対ではない、と考えております。計画的であることで見通しが立つ、話し合いの筋になる、という程度のことでしかないのですが。

 たとえば、それっぽく先の計画があるようで実はない話として「5年後になくなる仕事」だの「AI社会到来だVR社会だ」、「翻訳はなくなる!」だのいってるけど、どれひとつも実現してないじゃん。むしろ外している分はきっちり余事象の考え方を挿入してやるべきです。工業が衰退して、かつ新聞・テレビはなくなるかもしれないけれども、なんでもかんでも5年後に無くなるとかいって、デマや風説を流すべきではありませんよ。世界中から無能の称号を贈られる自動翻訳に、果ては雨の日は自動運転できない能無しロボ頭。そんな奴はペ○パーと一緒に田舎の販売代理店送りハゲ。夢と現実は分けなきゃ。

 週刊誌やSFじゃないんだから。

 でもってさ、人工知能以前の問題で、たとえば自動改札設置されても、結局駅員いるじゃん。 自動改札でつまったことないやついんの?みたいな。あっ、みえた!