2016年6月24日金曜日

小説と評論文

・大学受験にみる「小説」と「批評」の違い
 小説を読解するであるとか、批評する行為は、純然たる解釈に先行するものではないと感じられます。それは、現代国語と小説文の出題者の視点の違いを考えると飲み込みがよくなります。

 例えば、大学受験で試験に課される現代国語はある程度「読解」を前提に進められるけれども、小説は一部を強引に切り取って「こうだろ」と出題者の意図を読解させる、という、出題者の立ち位置の違いに帰結していきます。

 自覚がないでしょうけれども、これこそ小説家が評論家より受験にイラつくその理由です。破綻した国語教育そのものですね。田舎では高校の先生は教えてくれないと思う。彼ら、私より頭悪そうだしね。

・批評は読解ができる
 批評の場合は、ある程度まで読解が可能です。読解できない批評もありますが、それでも意図を汲む努力をして意図をぼんやりとでも持てないとしたら、それは評論の仕事としては、怪しいですね。

 例えば。「例えば」といったときには、上で述べたことの例を提示しています。

 けれども、しかし、といった場合には、よく考えてみてください。

  a. カレーは美味しい。しかし、うんこであることを忘れていないだろうか。それでも、カレーをみんな美味しく食べている。

  b. カレーは美味しい。しかし、食べてはいけないうんこじゃないか。うんこを食べるなんて間違っている。

 aでは、カレーは美味しいから(それがうんこであっても)みんな食べている、という結論です。bでは、「しかし」で、逆転します。カレーはうんこだ!と、最初に示したテーマに疑義を呈するのです。そして、「しかし」で逆転した以降の文が、ここでの「いいたいこと」として取り出すことができます。

 ところで、といったときには、別の話題がはじまる、ということを頭の隅に置いてみてください。今まで批評は読解ができることを述べていたけれども、急にラブホで綺麗なお姉さんとイチャイチャしたい、という話に変わるかもしれないし、もう時間がないからこれでおしまいだよ、と述べるかもしれないけれども、どちらにしてもテーマは変わっています。

 そういうわけで、ある程度、批評は形式的な読解が可能です。考えさせられても、クリエイティブな「解釈」の余地は少ないですね。それを読解と言い換えて差し障りはないでしょう。

 さて、コンテンツに感想を述べるということは、コンテンツのいわゆる解釈でしかありません。コンテンツと、上に述べた小説、あるいは小説家の立ち位置はよく似ていると感じられます。

 ちなみに、大学の教授先生から拝聴したのは「大学受験の範囲であれば、二項対立が把握できれば問題ない」という前提です。受験される方は、概ねその二項対立の範囲を問題として解かされるのだと考えて構わないということです。そんな前提に立っているひとでさえ、日本人の15パーセントもいないけれども。

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 国家日本としては対ドルでは円高に、そしてユーロが、対円で120円からさらに価値を下げております。イギリスのEU離脱に悲喜こもごもですね。国際協力していきたいなあ。俺若いしバカだからメカとかサブスクリプションまるでわかんねえよ。ルーブルが気になりますね、いやなんでもない。MP3くらいタダで聞かせてくれても、いいじゃん。

 おっさんそういうのよくわかんねえっていえば、鏡音リンちゃん、あんなに元気だったのに、エンタメ業界の悪い大人に渡されたクスリやったら、目がとろんとして気持ち悪い笑浮かべてるの、よく分かんねっすね。あの子、暴れすぎてロボトミー手術されちゃったとか?大人の皆さんはそれで、満足かい?いやあ、まさかの超展開ですねえ。需要を全て裏切ってるの、ある意味カッコイイし、これ面白くない?

MADE IN JAPAN

 リリスクさんの縦型MV面白そうだなあ。Vimeoか。

 大丈夫、お金は衛生的に考えてきれい。電子マネー汚れない。電子マネーも、いわゆる確率的な排除を生む可能性があるので、議論になります。ゾーニングというやつですね。まあそういうのは大学入ってからでいいです。