2016年6月8日水曜日

期待が絶望に変わるとき

 ときに、プロフェッショナルの方が、「誰かを楽しませたい」、と述べられるのです。そういうときに、私は心の底からこういった方を尊敬するのです。誰かを楽しませることができて、自分も面白いと思うことができたら、それはとても有意義ですよね。

 しかし、世の中には、誰かに希望・期待を与えたり、罪の意識を与えたりする連中というのが少なからずあります。誤解しないでいただきたいのですが、希望や期待は、誰かを楽しませることとは違います。そこで線を引けないと、壮絶なことになりそうですが、いわゆるエンタメの「プロ」は、そういうものをしっかり理解できているのだと感じられます。線引きしないと、怖い思いもしますよね。「ほらほらお姉ちゃん、怖い思いさせてよー」、とか思っちゃうあたり古き良き時代の悪いものを引きずっているのかもしれない。ふおおおおぉぉぉぉぉ!ヤンデレキターーーーーー!とか。ポジティブすぎるか。

 だから、「この希望で客を期待させたら浅はかだが夢が叶う!」という希望に満ちた声を聞くと、私はこう考えます。「ああ、こいつの夢が叶う前に絶望させたら、とてもいい悲鳴が聞こえそうだ」と。

 人は生まれながらにして罪を背負っている、というようなキリスト教原理主義的な考え方も大嫌いで、そういう奴をみると積極的に罪の意識から逃れて自由に振舞って、そういう宗教に絶望する、その瞬間の悲鳴が聞きたいと、心の底から思うのです。

 さて、その悲鳴で享楽主義を満たしてくれ。

 私なんかは、身内からそういう期待含みの(若干ムカっとするような)話が出ても「あーあ、しゃーないですねはいはい」と流すようにしています。付き合いは仕方がない部分もあるし。みんな勝手にやったらいいんですよ。でも、希望や夢をみたいとか、罪悪感の据え付けが欲しかったら、うちはそういうのないので。初音ミクらバーチャルアイドルの思想と全く反するのですが、マジでノーフューチャーなので。

 でも毎日楽しいですよ。