2016年3月21日月曜日

ISISごっこは「社会通念上許されない行為」だったのか

 「ISISごっこ」で検索して出てくる批判的な言説は、すべて去年(2015年)の1〜2月で「ブーム」がストップしています。群馬の学校では校長がこれを、一時的な批判に屈して、すなわちテロに屈しているにも関わらず「社会通念上許されない行為」であると定義しています。

 わが国における表面的な「社会通念上許されない行為」というのは、それはまさに、テロに屈することではないでしょうか。群馬からでも埼玉からでも、ここからは鼻くそをほじるように気楽にできる、ある意味では残忍な権力の誇示でもある「ISISごっこ」を批判する、ということは、どういうことでしょうか。まさに、テロに屈している(恐怖を扇動することで目的に誘導するというテロリズムの本質的な理論に飼い慣らされている)ということに他ならないです。

 もちろん、社会通念を擁護する必要など微塵もないのです。けれども、この群馬の校長の定義からは、「社会通念」というものが、群馬県内の高校では、いかに「一過性」で加熱してブームの終焉とともに冷めるものであるか、よく理解できます。

 言い換えると、社会通念とはネットのまとめサイト、それを見たクレーマーの要望に忠実にこたえて学生を私刑で処罰する、ということに他ならないです。つまり、群馬の高校ではせいぜい2ちゃんまとめの恣意的な言説が彼らの行動の規範であり、彼らの社会通念を規定しているのです。

 では、ISISごっこは本当に「社会通念上許されない行為」だったのでしょうか。少し考えてみていただきたいのですが、そんなところ(いわゆる「2ちゃんまとめ」が考えた「社会通念」)から判断される校長の「許されない」という決定に、合意可能であるはずが、ないです。

 いっときの熱にやられたミスというものは人間であれば誰にでもあるでしょう。改善を願いたいものです。それでも改善しないのであれば、群馬のニホンザルの群れをヒト社会と間違えていた「私たち」に責任があるのかもしれません。

 群馬とか静岡にテロリストは来ないからさ。そういうのは東京に行くから。そしてね、あまり同じことで怒らせるなよ。

・テロリストの技術力と進行状況はどうか
 一部では核兵器が開発可能だとか喧伝しているけれども、イラクでは盗まれた核物質が使い道が分からずに戻ってきてしまっている。アッラーも目先のカネを泥棒するくらいしか教えてくれないんだろうよ。

 彼らは銃乱射と自爆を好んで使うけれども、それもどうだろう。私なら、自爆をする人数でその数倍は破壊できますね。やらないけれども、爆弾くらい遠隔でコントロールしろよって思うのだけれども。別にそれが集団である必要もない。

 所詮アラブの宗教でしょ。中東の技術力じゃ避妊もできないのでは。

 何より、例によって、ベネルクスの領域に破壊活動が止まっています。アントワープ周辺やフランスに通じる経路では武器の売買が昔から盛んで、人的な混交もあるので、茶飯事だといい切れる。

 だからここにはテロリストはこないし、来ても東京になります。だから、日本一丸となって、喪に服したり、反抗したり、ということになるかというと、そういうのは期待しているとしたら、お花畑の人でしょ。東日本大震災の後で富士山麓で発生した大規模な地震を覚えているのは、東京から逃げた思想家が再び被災した間抜けな話の中くらいで、私は微妙に、ああ、本当に日本なんてものは幻想だな、東京とは随分と温度差があるな、としか思わなかったけれども。

 死のうとくたばろうと他人は他人ですよ。