2015年12月21日月曜日

「笑い」に落とし込まれる作品たち

 淫夢が差別だという人がいるのです。けれども、それは誤読です。対案もないくせに税金で食って批判ばかりしやがって。

 特にひどいのが「笑い」のネタにしている、という先入観からの誤解。こういった人たちがどういったコンテンツの受け取り方をしているかはわからないけれども、必ずしも全ての淫夢が「笑い」や「ネタ」ではないし、安易に製造されて消費されるものでは決してないのです。音のひとつ、アナライザを見たときの音質、音の立ち上がりと立ち遅れ、丁寧にサンプル化してスターターキットとして組み立てるまで高度に論理化されたセリフの回し、どれひとつをとっても、そういう「ネタ」や「笑い」に限定された意図にないことは明らかだと思う。というか実際に実地に行っていないアームチェアの議論をしている人ほど、勝手に作品を「笑い」という領域に分類して、貶めている。ああいうものが、何かタダで出てくるもの、つまり安上がりで、自由との葛藤とか、音楽性とか、そういうものが一切ないところで生み出されてくるような扱いになっている。

 もうひとつは、そういう勝手に性的少数者だという意識を内在化させてカルト化していくことへのおぞましさ、という文脈に議論があるということで、正直もうこれ以上反証することはない。

 よくいるんだよな。ボカロでも、自分の関わる周辺に近い(内容が近いだけで考え方は全く違う)ところにも、あれは笑いだ、キャラクターだ、といいながら、謎の音楽性進化論を唱える頭の悪い人たちがいて、散々クリエイター潰しをしている。胃が痛いんだよね。そして、思想哲学(あるいは宗教?)的一貫性なくあれやってみろ、これやってみろと右往左往した議論をしている。

 いわゆるマイノリティとされてしまう当事者が、当事者の「深さ」を芸にして作っている例も知っている。というかゲイは誰にでも当事者になり得るし、バウマンのいうように、そして差別が行われているんですよ!というときにも、何らかの恣意的な分節から差別は起こりうる。ただ、そういう連中が勝手に独我論的オカルトになっているときには、もう何もこちらからいうことはないし、触りたくない。私は、そういうものは人それぞれであって、勝手にすればいいのだと考えます。

 けれども、何かしら作るときにそれを萎縮させるような考え方を、アームチェアに座りながら世間一般に流布するようなサイコパスがいるから困る。参与観察をしていないのは調査に入らないし、そういう人は何がしたいのかさっぱりだけれども、アームチェアにどっかり座ってることが正しいと考える人を否定するのも趣味ではないので。ただ、企業・集団での社会経験者ならミスやエラーの扱いも慣れているし、多少のストレスには耐えるけれども(当然耐えることがいいことであるわけがない)、そうでない生粋で純粋なアーティストだったら、きっと潰れてしまいます。潰れている期間だけ「損失」が発生しているのよ。

 自分の哲学や認識に都合の悪いもの、あるいは宗教や哲学を「あれは笑い」とか「あれはネタ」などといって差別して、かついちいち排除しているとしたら、それはいかにも人間らしい把握の仕方であって、気楽なものだなと考えてしまいます。そんなことだからコンテンツが世界中に出る一方で、批評だけが機能せず、内外に評価されない一因なのでは。学問が足りないんじゃないですか。早く全部妖怪のせいにさせてもらいたいね。

 どちらかというと議論やショーをするためではなくて、必要最低限度の情報を交換するための、新しい叩き台が欲しい。

 どうでもいいけれども、ロシアアニメのマーシャが大成功しているらしいです。チェブとミトンはいいものです。ミトンのあの赤い犬は、正直露骨だけど可愛い。スターリン後の転換期に出てきた作品群が、その後のロシアアニメの成功の裏にあるのかなあと。北米型のCG表現に、カチャーノフの人形たちのような表現は適していたのかも。映像は詳しくないけれども、セル表現も着々と入っているようだし、今後面白くなるといいなあ。動画は本当に門外漢ですけれども。