2015年9月29日火曜日

抽象的な三十路の傷心

 ここ数年引きこもりがちでした。そして毎日勉強していました。すると、ようやく潰しも効くようになりました。英語も魔法も使えます、多分。
 それではもう遅くて、欲しかったもの、友人、恋、などなど、みんな通り過ぎてなくなってしまいました。これからどう幸せになるのか、私にはさっぱりわからないのです。
 私には、足の病気とか不景気とかどうにもならない問題が20代にはあって、そのどうにもならない時期がようやく終わったのです。その間に、なにもしていなかった人は、もっと酷いかもしれないです。私は、それでも生きていくために考えて、頑張ったつもりでした。でも、遅れず早くやる、という方法は未だに存在しないので、急かされているだけということも考えられるか。
 これから取得した資格的なものを使ったり、様々な辛い経験もあったりすると、もともと食うに困ることはないのだけれども、それはもう一人でも食うに困らず生きていくことはできるけれども、どうやって自分が楽しく生活していけばいいのか、どうしたら幸福感を得られるのか、さっぱりわからないんですよね。彼女もいないし、いいかげんおっさんだし。彼女が欲しいのかもよくわからない。どうして勉強したかって、モテたいからではないし、カネのためかといえば、まあそうなんだけど、カネ使う気ないし、よくわからない。
 それに、SNS上での人との接し方もよくわからない。会えば早い、とか思うけれども、それってなんかね。古いっていうか。そこにきて三十路で検索して出てくるのが「三十路・バツイチ・傷心」とか、お前なー、みたいな感じで、なんだかねえ。青春を謳歌しようと三十路の現実だな。ああ。
 まあでもとまれ、私のやってきたことは私の自己責任だしー、優先順位は生きることで、生きていればそれでまずいい、っちゃいいんだけどさー。バカですねえ。そして、なんですかね。どちらにせよ私のようなのは、俗的な幸福にはたどり着けないのかな。でも景気とか難病疾患だとか、ほとんど運次第ですよね。
 なにがいいたいかよくわからないのですが、よくわからないといいたかったのです。でもって、まあそんなこんなで毎日は楽しく過ごしております。