2015年9月27日日曜日

ヒトは社会性のある動物か?

 社会性 sociality というときに、いつも思い出すのがWeb2.0とかソーシャルという流れです。これらは、あきらかにインターネットやウェブの後からやってきました。そして社会は強く、私はその中では大変弱いです。雑魚。ツイッターやったらアカウントふたつも消されてしまいました。なんだろうな。
 社会は現代の工場であり、現代の工場は社会の縮図です。
 まず、垂直統合の社会です。期間工から正社員、さらには「なんたら家」みたいなのまでいます。
 コミュニケーション能力は必須です。登用時、試験はなくても面接はあるのです。これは、アメリカ映画の『モダン・タイムス』の風刺にも当てはまることはないし、時間に遅れた労働者でも、刺青が入っていても、工場は受け入れます。事前に連絡をすれば、ね。あるいは、安全性に鑑みた「ご安全に!」という挨拶を必ずすれ違いざまにやっていることを考えると、ある意味では、コミュニケーションが重視されています。指示や「声を掛け合い災害ゼロに!」みたいなスローガンを読み解く、国語力なるものも必要とされます。
 結局は熟練工が求められる。いわゆる自動車からきた「流れ作業」は、未熟練工、つまり誰にでも可能で、誰が作業しようと代替が可能であるというイメージが先行します。それは印象論で、実際には熟練工が工場内に流れる不愉快な音に合わせて機械をリズミカルに操作して、あの日本車が生まれてきます。工場で労働に従事している方に聞けば、ほぼ確実に返ってくるけれども、「溶接」のような作業は一部機械化されている、といわれます。けれども、機械がダメならヒトの手でやり直すし、溶接の機械を動かすのも人間です。
 熟練工に関してもうひとつ付け加えるならば、マクドナルドやモスバーガーといったファストフード店です。東京のマクドナルドで、あれだけのメニューを少人数で、あの客の入りを、捌きます。素人が投入されて対応できるでしょうか、無理でしょう。
 工場の例を引き合いに出しました。じゃあ、そういう工場にいて社会性を持っていないと食えないのか?
 スターリン時代の旧ソ連では、個々の所有の概念を捨てて、どうやら「工業化」に向かっていたようです。それで、土地所有者から土地を取り上げて、彼らを工場にブチ込みました。結果、農場と農奴は解放され、共同作業のコルホーズが生まれ、農業生産と工業生産は大幅に効率を落とし、ウクライナではホロドモールとして知られる飢餓を引き起こします。異を唱えれば、そう、シベリア!北の試される大地へ送られる、同志諸君!

 まあ私だったら、黙ってグルジアワイン飲みますけどね。

 最初は社会に不適合な連中が寄ってたかってインターネット自体を作り上げます。そこにあって「ソーシャル」はインターネットとの包含関係でしかない、というのは、人類にとって不幸中の幸いなのだと思います。もちろん、工場に行かなくても仕事はありますし、私はそういう共産主義の完成した社会は好きじゃないですね。まあいいんじゃないですか、社会性があっても。はいはいどうぞご安全に、ごきげんワーゲン!みたいな。



 だったら、工場で働けばいいじゃんっていうね。
 逆に考えると、そうでない部分のひとつは時給がいい仕事なのだけれども、たとえば翻訳だとか、そういう系はインターネット使うときに突破口になるのかなーとか。まだ30代で、時給850円からうん千円に突如変わる上に、時間が拘束されても、おそらく場所が拘束されない(変な話ロシアに遊び行っても仕事はできるわけね)感覚って、突然やってきても多分イラッとするけれども、これが資本主義だよな。でなきゃ給与がうん10倍になるタイプの魔法が使えるようになったんだな。
 もうひとつ気になったのは、最近の好況で給与が上昇しているけれども、それを使うような時間が工場の人たちにはないようにみえることです。消費がなされないという一端は、こういう公共セクタの予算のはけ口を長時間拘束していることだろうなと考えられます。駅前に人影がないし、あっても金持ってそうな、イオンの服屋で買ったようなスカートとか履いてる、いわゆる正社員の人妻っぽい層が多い。子連れとかも。どうも給与を上げても、拘束時間が長すぎて家族もいない場合、パチンコに行くくらいしかないんじゃないかという。
 
 なんにせよ本腰入れて数十年は勉強しなきゃダメですけどね。でもそれ、そういう過度で濃密な社会性いらないんじゃね?っていう。かくて、次期天皇である愛子さまが、音楽と英語と声優に興味をお持ちで、過度な受験戦争に一石を投げている状況は興味深いですね。