2013年5月28日火曜日

反抗と従属から、ニュープアがとる戦略


抗うことで、実は従属しているということについて考えてみます。なぜこの問いなのかというと、反抗や抵抗、テロにより、大きな物語やひとつの理論による説得が成り立たない昨今を考えたいからです。こんな時分、人は互い違いになっていくのでしょうか。結論を先に述べてしまうと、互い違いにされながら、人間たらしめようとするというものが現代のリゾーム液状化で、これに対抗するとは、では具体的にどういうことで、なにを意味するのでしょうか。

近代、人間は主体を求められ、たとえば『車輪の下』など読みながら、またギムナジウムで、あるいは工場の労働者として、陶冶され、教育され、人間になりました。人間にならなければ、異常とされ、狂気とされ、消されていきます。このあたりは、監視と権力を巡る議論に詳しいのですが、時は流れ、公衆衛生やパーソナライズに至り、現代も人間たらしめようとする権力の活動は、形を変えながら、また流動化しながら、かつ消えかつ結びて、家の内外をまた無線LANでつなぎながら、とどまることがありません。

人が自然から文化に移行した後、いよいよ人間になるけれども、車の運転に慣れた人などを例にその文化を決して否定をしないのが実は構造主義文化人類学です。いかなる状況にあっても、これは変わりません。

さて、主体は敵を客体として成立することは、『失楽園』や、フロイト精神分析にいわれたようなエディプスコンプレックスをテクストとして解釈すれば、明らかです。もうひとつ、最近ハマっている語源から、これを考えてみます。

object subject obey the low のobと客観objectのobはどちらも向きや方向のニュアンスを持ちます。印欧語の接頭辞として、逆に、というニュアンスがあるそうです。

例えば、こんな風に。
ob-【=against 〜に対して】bey【ラテン語 audire 聞く】

obstacle、邪魔をするとか阻害する、というのも、ob逆に、stacle立つ。

反逆することobeyは、つまり、逆ob-で、単語としては、従う、という意味になるわけです。

object to〜で「〜に反対する」、ここでもob-は方向を持ちながら、それは-ject、投げられます。誰に投げるのでしょうか。toだから、相手に投げます。逆に、相手に投げて反対するからtoが付くのです。rejectは再び投げる、すなわち、拒絶です。

では、subject、主体はどうでしょう。subには基礎とか土台のニュアンスがあり、そこにjectで、投げる、つまり自分に投げているのです。しかし、主体を主体たらしめているものとは、他者の持つ方向性です。

参与観察というのは、ob-とsub-の両側に立つことはありません。対象の感情それ自体を探るところでは、愛情など抱いては、関係性の内側に取り込まれてしまいます。もし人類学者がブラック企業でフィールドワークをして、そこで誰かに恋でもしたなら、屍になって帰ってくるか、帰ってこないか。

外の人はあくまで、外の人でしかないのです。

ゆく河の流れは絶えずして、常にもとの水にあらず。

液状化した社会制度は、確率論を用いたパーソナライズやレコメンデーションにも通じながら、すでに浸透しています。もちろん、サーバー側にいる人間が手を加えたり、政府が雇用政策に口を出して、日雇い派遣が解禁されたりしながら。また、親族殺や、バウマンのゲーテッドコミュニティに耳を貸さず、犯罪のない小学校に民間警備会社という、いわば体制側テロリストが入り、ますます液状化が進むのです。これらはまたグローバルに起こっています。同時多発なのです。

これに加担するか、対抗するか。

まずは逃げることです。人間をやめ、しばらく蟄居することで、視野は広がります。国家に加担する前の報徳思想は、晴れの日には開墾を、雨の日には学問を進め、一定の成果を得ます。学問により、特に外国語や数学など身につけ、決してどちらにもつかず、人間たらしめようとするあらゆる権力から逃れること。

時代は揺り戻しで、現在は内向きであったり、勘違いしたグローバリゼーションやら国際が蔓延していますが、次は必ず外に開きます。対抗も和議も、あっちに流れてはこっちに流れます。

そのときのために、縦に学問、横に網をはり、年限に関係なくまず有利な場所に戻ること。いつやるかと問われたら、まさに今も着々と知識を得て準備を進めていて、そこで自分は自分の役割をようやく果たせます。