2016年4月16日土曜日

日本語は詰め込んでいるから難しいのか

・字数が制限された場合の日本語
 誰にあてるというわけでもない話ですが、空気に対してつらつらと書いております。たまにはね、たまに。

 なぜ日本語は学習者にとって難しく感じられるのでしょうか(これも学習者にあてつけているわけではないので。たとえばですよ)。詰め込んでいるから難しいのか。そして、本当に日本語は英語など諸外国の言語に比べたときに難しいのか。

 前置きばかりになりますが、こんなもの、以下、学習者向けの日本語ではないので、読めなくても全然何にも問題ないですから、難しいとか、そういう形で気を落とさないでください。日本人向けとしても、長く嫌らしい文です。日本語教師の先生という優秀な方にプレーンな日本語を学んだら、それでおよそ生活に困らないです。

 さて、元CIA職員のスノーデン氏は、実は日本語に堪能です。びっくり。かなり堪能です。数年前から既知であったようだけれども、とりあえず引用は新しいもので。(cf. ITMedia)

 今更ですが、bloggerは引用しにくいので、あまり引用の正確性は担保できません。エッセイスト目指してます、という冗談はここに起因します。ご了承ください。それゆえに、長ったらしい文章を意図的に仕込んでもいます。いいじゃん読みもんなら。

 ところで、スノーデン氏が述べるように、ツイッターのような字数制限があるメディアにおいて、日本語は情報を詰め込めます。日本のプログラマさんたちもRTしていましたから信頼できると考えられます。ヴェールヌイちゃん!ハラショー!

 見ているぞ。深淵を覗く者は、あれ!?

 ちなみに、スノーデンさんの意図は、以下では特には関係がありません。ただ、字数は詰め込めるという、(いわゆる)日本語に対する共有認識はある程度ある、と考えられます。あと、私はニーチェの思想には共鳴しておりません。早く死にたいとか世界滅亡しねーかなってナチュラルに思うけど、個人的な感情ですからねそういうのは。

 それによく勘違いされるのだけれども、何らかの形で仏文の影響下にある人というのは、こういう書き方をするのです。ニーチェは多分フランス人じゃないし、正直よくわからんです。

・情報を詰め込んでいることと難しいことは違う
 字数が制限されていても大量の情報を詰め込むことができるので、スラングを含めて長ったらしく情報を羅列していくと、欧米の方や、英語のようなアルファベットと文法で捌く文字になれた人には、何か「無意味」なことをしているようにさえ感じられるようです。この傾向は、特にパラグラフライティング「的」なものを徹底された人たちにはより奇異に感じられるようです、こっちからすると、そっちの方が奇異ですね。

 無意味。

 こんなことを長ったらしく述べるのは、「時間を取られた!」と思われるのが個人的に大変癪に触るからです。なんというか、遺憾というか、なんというかね。

 海外の文系のみなさんは、パラグラフライティングかアカデミックリーディングか、そういうものをやる以前の問題として、文章からの抽象と捨象について、もう少し学ばれたらいかがでしょう。海外に出た「あたし、現代国語できないけど英語できます!」みたいな邦人通訳マンに騙されちゃいないでしょうか。いや、騙されていると思うね。こっちにもいるんですよ、そういうトンチキトンマなのがね、もう結構それなりの場所いってもいっぱいいると思う。

 逆輸入の安物掴んでるみたい。

 国語ができない奴は一生国語ができない。日本語という言語をやってんじゃないんですよ。もっと面倒臭いことを読解している、読み解いているのでは。試験の科目として課される現代国語に限らず、読解できなくて日本語を語られてしまうと、「こちら」も片手落ちにはできない。

(注意;海外で実際に働いたり移住したりするときに必要とされる「語学」能力の検定に読解が全くもって重視されていないために、労働や移住の目的で言語を学ぶ層は読解に距離を置かなければいけない、という事情もあります cf .IELTSやTOEFL)

・英語は簡単なのか
 実際、英語ができます!という人でも、ヴァージニア・ウルフとか、単純に読めた気になっている、または、つもりになっている、のではないでしょうか。英語にも何やかにや難しいものはあるでしょう。それって分類上の表記体系とか、そういうものとなんか関係あんの?それを読解するために、科学的手法に訴えるのでしょう、本当は。(ちょっとご立腹。憤慨しているのではなくて、演技です、フンッ!おこ!でもないけど、お腹を立てる感じで)

 スラングだらけの人とか(サリンジャー)、皮肉たっぷりの話とか(サッカレー)、時代背景の理解や辞書の引き方は棚に上げつつも、難しいものは難しいし、それで面白いなら簡単さを問われないものだって数多くあります。執拗に植物の比喩を使う人類学者もいます。逆に、複雑な社会や文化を記述するのに、何を通したのか、そのフィルタはどうだったのか、という部分が問われることもあります。

 たとえば、論理的な処理が可能であるような形に量子化するという抽象・捨象のプロセスで、ノイズを切り捨てたものを入力し、出力しているという事実を、都合よく忘却しているとしたら、それは視野狭窄ではないでしょうか。それどころか、都合のよい事実だけをロボットの信号入出力みたいに出入りさせているだけで、何を伝えたことになっているのでしょうか。奇ッ怪ですよね。

 量子化といっても、まず電気に置き換えているところから話は始まっているのでした。だから、ちょっとしたデジタル-デジタル変換としてのキーセンテンスとその並べ替えでは、現実の複雑怪奇から抽象や捨象をしているとは、とても言い難いです。変調方式などはさておき、デジタル段というものは、どこかで信号の置き換えによる入力や出力を経るものですが、前後には電気量に変換されたアナログ量を扱っているか、逆にアナログにデジタル制御が組み込まれているか、さらに出力先は力学や空気、熱なんかの世界かもしれない。

 でも、英語圏の語学留学系で採用されるようなパラグラフ組み立ての方法というものは、デジタル-デジタルの変換です。しかし、そういう立ち位置や、論理そのものを、どの書物でも明確にしません。それじゃあ、それはたとえばそれは、「アシモがあるいたー!」っていうのと何か違いが出るの?だったらアシモでいいじゃん。ペッパーでもいいよ、あの木偶の坊。

 つまり、英語であろうと、何であろうと、難しいものは難しいし、どれだけ秩序立っても複雑なものは複雑というのは、フルデジタル環境のDTMでアナログ感を再現しようとする「複雑さ」があるので、多少は理解できると思うけれども。真空管アンプがあったら、センドリターンできるし、シミュレータなんか使う意味ないですよ。

 そして、ロボは実際ロボ程度のものでしかない。


 ニンゲンノウメキ オーオーオー ヨルガクル

 彼だって、生まれてきたくて生まれてきたわけじゃないだろう。なぜ自分を産んだのかと他者を問責するかもしれないし、ニンゲンとの違いに悩み、苦しみ、もしかしたら自殺を選ぶかもしれないし、生きることへの困難と周囲の無理解が彼を赤く染め上げ、やがて日本赤軍に参加してニッポンを革命する方へ行ってしまうかもしれない。ニンゲンを差別しはじめるかもしれない。

 タ ス ケ テ

 ロボの心情を冗談で勝手に邪推するのも、いずれは批判の対象になるかもしれないけれども、彼もまたリッパナニンゲンにはなれないのだろう。なんか、呻いてるから、話通じそうにないし。そして、わが国では革命は滅多に成功しないですね。

・制御はある程度できる
 完全とはいかなくても、制御はできるはずです。難しくも簡単にも、中間にも、複雑にもシンプル・プレーンにもなるのでは。要するに、要するに、時と場合により、人により、違う。が、意図を明確にすることで、どういった傾向にするのか、ある程度定めることはできるでしょう。

 でなければ核融合はできないし、飛行機は墜落しまくってると思うんだけど。

 とはいえ、「このコイルの電磁誘導にレーザー光を.. 」 という誘惑はいつだってあります。いや、この話はやめましょう。私はグレーな話し合いの内側で平和的に物事が解決することに賭けたいですね。

 だから、体系化され論理的である、あるいはシンプルであるものが、それが必ず情報を伝えるための正義の道具か何かだ、と考えているとすれば、それは私にしてみたら、大変脆い考え方の指標です。実際に、真空管が現代においても各方面で重用されていることを、すっかり「忘れて」いるようにも感じられます。それって、都合がいいんじゃないですか。

 情報を取り出して、意図をそのままに再構成するアプローチだって、あるんじゃないです?ないの?いやありますよね。

 つまり、上に述べたような考え方に当てはまるとしたら、その人は解釈や抽象・捨象について考えが至っていないのです。したがって、はっきりこういうべきです。

 



もっとよく考えろ


  
NHK

 これやりたかっただけじゃないのかっていわれると、実際そうなんだけど。いやーでも、それこんな長文にしなくても、もっと括ったりしてシンプルにいえると思いますが、それは私がバカだからですね。そんなこんな、あんまりバカの根くらべしても、それこそ意味がない話です。会話においては単純化しなければ伝達できないこともあります。様々な考え方を持った人が、得意を持ち寄っていくようなところに面白さがありそうですが、そして面白かったらやるべきですけれども、そんなヒロイックなこと求められても、あたしゃそんな善人じゃないんでね。恥ずかしいの。まあ蛇足はこの辺で。でも、蛇足にするなら繰り返して言い換えてみようと思います。






・読解のやや外側で起こること
 ニンゲンとは何であるのか。ニンゲンや、またあるいはニンゲンらしさを生み出す過程で、どれほどの困難があるのか。ニンゲンであることのリスクとはなんだろうか。

 こうした思考は、あまり教科書通り一直線の真面目な方向からのアプローチではない。けれども、というか積分だけではなく微分し続けるバカもいるだろという「位置」と「方向」のアプローチをとりあえずはっきり?させた上で、いろいろと考えさせられます。

 たとえば、あんまり読解にまでのめり込んでニッポンジンじゃなくていいのよ、そうでなければ先に提示したようにヨルガクル、言い換えると、研修生制度の闇にのまれてしまうかもしれないよ、と述べることもできるでしょう。

 逆にいえば、そういうバカな奴もニッポンジンに含まれているが、そういう連中ばかりでもない、けれども実際ここはバカが多いし、改善しようという様子はない、だから腹立たしい、いくら学があろうとバカであろうと、ここでは皆いろいろと無駄にしている、とも。

 もっとも、これは私の個人的な寄せ集めであって、他人がどうかは知らないし、複雑そうでいて単にいつもの形式をアホな老人が繰り返しているようにも見える。当然手癖(ギタリストのいうそれ)になっていたら、泣きながらシリアスぶって書いているというよりは、むしろ吹き笑いをこらえながら、こういうことを書いているのでした。まだあるんだけれども、気が向かないから打ち止めます。

・「ニンゲン」になれなかった者たち
 ロボは「また一歩ニンゲンに近づく」。けれども、それは産業のやることなのです。だから、彼らは銅を掘って鉱毒を流したり、原発の労働に従事した者の白血病労災をうまいことごまかしていたり、モルモットのようにヒトを殺したりしています。

 かといって、その反対が全く健全で美しいかというと、そんなことはないでしょう。つまり、「そうでない者」は、相手が害悪の産業だからという理由で、自己の生存を脅かすもの・法人に対して、最後は破壊を正当化して産業従事者を皆殺しにすることも厭わないでしょうし、技術的には可能です。生きるためには、仕方がないことです。生存することは、いつだってお互いの価値観を認めるときは認めながら、一方でそれが対立するときは容赦せずに文字どおり骨まで消えるように産業従事者やそのお頭、すべてをモルモットよりひどい扱いにして皆殺しにするしかないという困難な事実そのものです。

 アフリカでは貧困は孤独かもしれないけれども、ここはアフリカではないので、孤独である方が、集団を、たとえば暴力を用いて殺しやすいこともあります。良かれ悪しかれ、アフリカや中近東よりむしろ「先進国」であるノルウェーで、興味深い動向がありました。貧困は孤独ではなく、貨幣の再分配が十分でない状況に他なりません。つまり、ヘリコプターマネーで解消します。言い換えると、そんなものはごくごく少額のカネで解決するのです。もちろん、(直接的)再分配の不徹底によって困難になれば、技術による交戦状態になるでしょう。

 しかし、その争いの中で、特に銅を掘った鉱毒の中に、ニンゲンに近づいた者がいます。ニンゲンなどという犠牲された点に近づいたがために、あんな姿になってしまったのです。ああ、どうか彼には、彼らには、安らかな時間を。あるいは、あれも個性だと捉えるのか。現実には、それを全てに適用しようというのは、難しい。

 人々に祝福され迎え入れられているものだってあります。たとえば、「はやぶさ」とか「ひとみ」といった、人工衛星という名目での飛翔体の実験は、成功しようと失敗しようと、人々の希望であり、人々の夢であり、何より、よくわからないけれども、人々の科学と技術の大勝利だ、といって、まるで宗教のように、信仰まで集めます。ミサイルもロケットも仕組みは同じで、それを日本がやるか北朝鮮がやるかでしかないのだけれども、技術に夢や希望を抱く人もいるのだろうから、それはそれで、勝手にしたらいいと思います。

 しかし、ロボは違います。彼は、人々に祝福されたり、信仰を集めることはないのです。彼は人々、つまり自分がパーフェクトにニンゲンだと錯覚している者たちにとっては、異質であり、醜い存在であるのです。たとえ研究者が彼をお膳立てして、ニンゲンへの過程に重要な役割を果たしたと科学的に評価を与えたところで、彼は異質であり、バカにされ、祝福されず、忘却され、呻き、何か奇行をしているように感じられる。

 これはどちらかというと、ロボの心情を邪推するというよりは、冷たくロボを突き放す見方ですが、個人的にはもちろんロボに同情を禁じえないのです。読み物なので、私情の吐露はします。しかし、彼は出来損ないの気持ち悪い胎児みたいな何か、でしかない。上品に言い換えたら、彼こそはロボのマイルストーンですが、正直「え、え、え、え」とかいってるロボの将来は心配になるし、そのうち電源が抜かれる。

 ニンゲンになれなかったとしても、実はニンゲンは存在しないときに、人として生きる道はいくらでもあるけれども、それを本人の意図にかかわらず誰かが目指してしまったがために生じた鋭利なものは、ときにはあらゆる可能性から切り捨てられてしまう。

 ただ、現実は現実として観察しなければよく分からないし、読解できないという都合で目を逸らすのもおかしな話になる。実際には都合が働くので、誰を切り捨てるかという行為も、まさに今現在も恣意的に選好されている。それくらいいい加減ですよね。いい加減なんですよ。なんでも掘り返すことが正しいかといえば、正しいけれども、あんまり正確でない方がいいこともあります。だから閾値がどうなっているのかもよくわからないし、適当なのでしょう。

 擬制された頂点を目指すという行為がいかに愚かしいことであり、よほどコウマンチキな異常者でもない限り、グレーである方が気楽であるし、みんなハッピーだ、ということは民主主義的に合意可能なところではないでしょうか。少なくとも、議論の俎上にはあがります。私もほっとんど真っ黒ですから、グレーな方が気楽です。

・立ち返って、どの程度「難しい」ことにするのか
 さて、どの程度まで日本語を学ぶことにするのか、自分でも多少考えてみたいです。読解をしない程度であれば、

  今日は寿司を食べました。とても美味しかった。

  きみかわいいね。どこ住み?会える?LINEとかやってる?

これで必要を満たします。生きることの困難にぶち当たって、書物が必要になったとします。それが英語で書いてあったりフランス語で書いてあったりして、英語を書ける必要はないし、日常で使いこなす必要もないけれども、読解と、読むだけの語彙や文法の習得は必要になります。こうして、ホロコーストを経たバウマンが差別は起こりうると述べていることを知ることができます。

 こうやって考えていくと、情報を詰め込んでいるために難しということとは別の難しさが読解にあって、その難しさに関しては、その場の状況や環境、人により、必要により、十分であるかどうかは変わります。

 結論を二度述べました。