人格批判、自分もやるし、自分自身にもやってきた。これは間違いでした。けれども、以下に述べることは「他人の粗探し」に関する話ではありません。それは本旨と違います。そうではなくて、人間を、人間の根源を探るように追求しても、たいがい、点にはたどりつかないのです。「人間それ自体の探求」では「本質的な問い」にならないという話の延長上にあるできごとの考察です。
例えば、佐野眞一氏が示すように、東電OL事件なり、政治家ルポタージュなり、これらは結局、藪の中です。同様のアプローチは、なべて等しく納得のいく答えをギリシア以来出さずにいます。一方で、人間は世論なり数字なりをつかもうと、あらゆる手を尽くします。この知覚や動作は、やはり、目に見えるものではありません。
直接聞こえる音だけでは判別がつかないとき、それをひたすら斜めに分割することで、周波数として視覚的に表すことが可能で、この特徴を数式化することも可能です。文章にすることも可能でしょう。人間単体ではなく、それを、これを、どれもを、人間たらしめているもの。探求に人格的な影響は全くすべて捨象でき得るかというと、そこは厳密にいったら不可能ではあります。けれども、人格小なり関係大なりの間や境界に、私は興味があります
これらの事実、つまり人間を人間たらしめている諸関連、関係から、人間でなくとも、ルーターでもボカロでも椅子でも机でも人間になる、代替可能であることが導き出されます。より専門的な話をすると、人が捨象を行い抽象するということは、パターンを認識するということで、これらの詳細は数学基礎論に譲るとして、人と計算機の違いというときに、計算可能な状態に帰着なり抽象なりを行い、計算機にその情報を送り、計算させ、結果を得るということは、人と計算機の違いを考える上で大変興味深いところではあります。本旨から逸れましたが、やはり人格批判は難しいのです。たいがい、世間、つまり関係を意識して人は動きます。
ここまで、人格批判と、人間を研究することに関して、わずかな、ほんのわずかな部分ではありますが、ざっくりと、その手法と概念、考え方についての考察を行いました。
ところで、私は最近よく乙武さんに関連して「人民裁判」という単語を目にします。乙武さんという方は、年がら年中炎上をさせている不思議な方なのですが、それはさておき、この言葉は、人が人を裁くことについて考えさせるためのメタファとして用いられます。“乙武さんの件を外野が騒ぎ立てることは、人民裁判ではないか”など。ふるーいマルクス主義者の反省が滲み出たような単語ですね。
では、その人民裁判のメタファに係る部分をクリアにしてみたいと考えます。たとえば、法律の立場はどうかしら。これは刑法に係る話で、特に権限のない人が、他人を拘束したり連行したりすることは、だめです。職務質問の権限は職務中のおまわりだけが持っています。さらに現場の話をするなら、現認、その場で行為を見た場合にだけ、引き渡すことができます。さもなくば誤認、私がしょっぴかれる(そういえば、ひろゆきさんが最初にやってたのは交通違反の潰し方だったな)。
では、どうして善悪の判定や人格批判が可能でしょうか。ルポの話に加えて、実際の当事者しか知り得ない話を他人が「判定」することは不可能です。この部分を捨象したとき、やはり何故そうなったのか、という背景や関係性、権力論から問題を唱えることが可能になります。たまの人格批判はスパイス、意味はないでしょう。
さて、乙武さんは本を出版し、法律で守られた一方通行の放送波に乗って、各家庭に必ずあるテレビに出てきて、ダルマさま乙武さま久本雅美さまで出現するのに、「見ず知らずの人」が問題提起しているとして、いわゆる人民裁判・炎上を繰り返してきたタレント(才能ある人)です。
乙武さんは、炎上をネガティブなものと認識していることを逆手に取って、ああ手はついてないか、でもイエスマン信徒を伴い、相手を一気に炎にくべるわけです。しかし、炎上はいまやネガティブなものではなく、単に、事実を言っている人間を気に入らないから、数で黙らせようという構造でしかないでしょう。数?
数とは何でしょうか。アテンションよりリーチといいますが、リーチは、言い換えれば、関係性です。リーチによりコミュニティができました。リーチのその先の話ですが、コミュニティが炎上を引き起こす場合には、どれだけ叩かれようと無視されようと、怯むことはないのです。つまり、炎上でなにも気を落とすことはないのです。歴史的にはどうでしょうか。
石川五右衛門はさておき、ウィクリフは遺体を、ジョルダノ・ブルーノやフスは生身を火あぶりにされ、ガリレオは異端審問にかけられ、また赤穂浪士は切腹により大義を果たすが、社会的には抹殺されてしまいます。
乙武さん、はるかぜちゃんさんのやるような炎上は、先に述べたような人民裁判や異端審問の流れを汲む、事実を無視した政治的な燃やし方であり、なにか気の毒になる。一方で、事実は正確に記述するべきでしょう。権力の現れに対して、今さらメレンゲの気持ちになられてもね。
もとい、人格を批判するのではありません。その構造と、背景、権力関係などに注目して、意図的に行われる炎上はネガティブなものではなく、社会心理の操作を伴うやり方に身を置くことで、つまりマスコミュニケーションを通信の中でもやってしまうところで、なにかこのテレビ芸能人たちに対して、漠然と嫌悪感というものを抱いてしまいます。これは人格の問題でしょうか?